倶利彫り(グリ彫り) 元祖木目金:倶利彫りで始まる木目金の歴史
倶利彫り(グリ彫り)とは、色の異なる金属(素銅・赤銅)を交互に数十枚幾重にも合わせたものに、唐草文や渦巻文を掘り下げたものである。倶利彫りの技術を使って掘り下げた状態の金属を、さらに鍛え上げたものが木目金の技術である事から、木目金の元祖となる技術とも言える。
倶利彫り(グリ彫り)とは、色の異なる金属(素銅・赤銅)を交互に数十枚幾重にも合わせたものに、唐草文や渦巻文を掘り下げたものである。倶利彫りの技術を使って掘り下げた状態の金属を、さらに鍛え上げたものが木目金の技術である事から、木目金の元祖となる技術とも言える。
江戸時代初期、出羽秋田住正阿弥伝兵衛が考案した倶利彫り(具利、屈輪)の鍔[※]にはじまると 伝えられる。
その起源は、アイヌの民族紋様の影響を受けたとされる説や、中国の漆による屈輪(グリ)がもととの説が一般的である。
屈輪とは宋から明の時代に作り出された漆の技法である堆漆(ついしゅ)、犀皮(せいひ)による屈輪紋を彫りだした茶道具などの総称である。日本には室町頃より輸入され珍重されていた様子が当時の茶会記からも読み取れ、また、鎌倉彫りの起源となったことは有名である。江戸時代後期には印籠などにも同じ起源とみられる国産の漆による名品が残っており、当時この手のものが嗜好品として広く浸透していたことがうかがえる。
東京芸術大学大学美術館や大阪の藤田美術館に、南宋時代とされる漆の屈輪の香合の名品が収蔵されている。
※鍔(つば);刀剣の柄と刀身との境に挟んで、柄を握る手を防御するもの。江戸時代には、刀は、戦う道具ではなく、男性の装身具の一種のように変化していたと考えられる。
広く倶利彫りの技術が完成したのは時代がさがり、江戸時代後期天保頃。七代赤尾吉次、太七の門人に高橋卯兵衛正次という倶利彫りの上手が出ている。その特徴的な彫りは鋭利で深い。その後更に正次の門人、興次という同巧の作者がでる。現存する高橋正次、興次、良次に始まる高橋派によるみごとな倶利彫り・木目金の刀装具は、倶利彫り(木目金)技術の完成と考えるにふさわしいものであろう。
しかし、廃刀令後、武士が刀を国へ返してから後、木目金の技術は廃れてしまった。
その後の変遷について、詳しくは、「木目金とは」のページへ。
[参考文献]
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